制度史
大宝律令(701)の規程に医育があり、地方の国学でも同程度の教育が行われた。
鎌倉幕府に移った頃から医師・鍼師の養成は職人的な徒弟教育に委ねられてくる。
盲人による按摩もこの頃から台頭しだすのである。
江戸時代の慶長15年(1610)伊勢の国(現・三重県)に武士の嫡男として杉山和一は生まれた。
管鍼法を創案。
明治4年
鍼治講習所は幕府の物と見倣され太政官布告を以って廃止となる。杉山鍼按学校に受け継がれた。
明治7年
文部省達の形で政府の委陽方針「医制」が示され、その中で針灸は医師の管理下に置く事を意図し、東京府・京都府・大阪府の三府に通達したが、法令とならず実施には至らなかった。
明治18年
内務省達「針術灸術営業差許方」で、鍼・灸の営業取り締まりは各府県に委ねるとした。
明治44年
内務省令「針術灸術営業取締規則」「按摩術営業取締規則」を制定。これは針灸・按摩の教育制度・
免許・営業について、全国一律に規程した初の中央法令であった。
明治45年
両「営業取締規則」が施行。
大正8年
医術開業試験が廃止され、医師になるには医学校・医大卒業生に限られる。
大正9年
病医院の医療マッサージ従事者に対する「マッサージ術営業免許」、柔道教授者に限定した
「柔道整復術営業免許」が追加。
昭和5年
医業類似業者が増大。東京府は警視疔令「療術行為取締規則」を制定し、他の府県もこれに倣って
届出等による取締条例を設ける。
昭和13年
内務省の衛生局・社会局が独立し厚生省となり、外局に傷兵保護院が設置される。
昭和21年
進駐軍衛生局(PHW)が医業以外の治療行為に関する禁止勧告を出す。
昭和22年
医療制度審議会が答申を出し、按摩・針灸・柔道整復は医師の指示下で認め、盲人の針灸・柔道整復は新規の免許を認めず、医業類似行為は凡て禁止するとした。
「按摩・はり・きゅう・柔道整復等営業法」が制定される。マッサージ術免許が廃止され、按摩師免許に包含される。按摩・針灸併せて5年間4865時間の教育を必須とした上、機関委任業務として知事が
代行する実技を含む国家試験合格で免許が与えられるとした。
昭和26年
「按摩師・鍼師・灸師・柔道整復師法」と題名変更となる。
昭和28年
高卒以上の者に限り三科の履修は3年間3500時間に短縮。
昭和30年
医業類似行為のうち手技療術のみ「按摩」と同質と見倣して、厚生大臣の指定講習を受講させて
「按摩師免許」を与え、それら各種手技療術を「指圧」と総称して施術行為に加えた。猶予期間を
3年ずつ3回重ね昭和39年まで至る。
昭和35年
HS式無熱高周波療法に関する最高裁判決が下された。
昭和39年
按摩師の免許名が「あん摩マッサージ指圧師」となった。医業類似行為者の猶予が期限なしとなり、
事実上一代限りの容認となった。
昭和40年
病院・診療所で機能回復訓練に従事する「理学療法士」が発足する。
昭和45年
柔道整復師が単独法化されて、本法は「あん摩マッサージ指圧師・はり師・きゅう師等に関する法律」と改称される
昭和45~46年
ニューヨーク・タイムズの鍼麻酔記事から、世界中の注目を集める。睛眼者の針灸養成学校も、
多数の志願者を集めるようになった。
昭和63年
医学的水準と資質の向上を図る目的により、制定以来最大の法改正が行われる。
知事が代行する機関委任業務から免許権者を厚生大臣として、指定の試験期間・登録機関への
業務の一括委任である。高卒3年以上を原則
平成2年
厚生省の指示に基づき関係7団体の拠出金により、国家試験と免許事務を併せて行う「公益財団法人 東洋療法研修試験財団」が設立。
平成3年
福岡柔道整復専門学校の設立申請を、厚生省が不認可とした事から裁判となり、判決は「法の定めの無い理由による不指定処分は無効」とされ、厚生省が敗訴して控訴も断念した事で、今まで19条の規程に無いまま設置が抑制されてきた反動から、全国に多数の針灸新設校が以後作られる事になる。
平成5年
(公財)東洋療法研修試験財団委託による初の統一試験『あん摩マッサージ指圧師国家試験』、
『はり師国家試験』、『きゅう師国家試験』が全国一斉に行われた。